令和元年9月30日(月)より仕事を「定時で帰る」宣言をしました。
毎日定時で帰りと朝活を鬼継続している営業課長”シンタロー”の管理職までの経歴をまとめました。
- 本当にそんなことできるの?
- そんな営業課長やばくない?
- そんなことで管理できるの?
- 営業課長はもっと仕事しろよ。
- ていうかそもそも実在するの?
- 作り話なんじゃないの?
と色々なご意見あろうかと思いますので、事実に基づいて過去の経歴を紹介したいと思います。
完全ノンフィクション!
数々の挫折と成功体験が人を強くしていく実例!
営業職として伸び悩んでいる方にオススメの記事です。
⇩なぜ、定時で帰るのかについてはまずこちらをご覧ください。
シンタローのプロフィール
まずは簡単に自己紹介しましょう。
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⇩次章からは僕が営業管理職になるまでの挫折と栄光の営業プレイヤー時代のお話です。
華麗なる暗黒時代
新卒として働こうとしたのは最強のブラック企業
時は就職氷河期。
中ランク大学4年生。
当時から熱い野心を持っていた僕は新規事業を次々と行うベンチャー企業中心に就職活動。
人事の採用面接では
「理想はありますか?」
「いずれ経営者になりたいです。」
「理想を持つのはよいことです。理想を持たないと理想には近づけませんから」
との言葉に感銘を受け内定をもらうと同時に就職を決める。
(これは今も好きな言葉です)
新卒内定者は研修を兼ねてバイトせよ、ということで働き始めるが
勤務時間6:00~0:30(18時間半勤務)という記録的ブラック企業であった。
当然のごとく半年程度で辞めると決断し、「そんなんじゃどこの会社でも通用しない」とボロクソに言われながら内定辞退する。
ここから半年、バンド活動をしながら廃人という生活を送り、晴れて第二新卒となったのだった。
現在の会社に就職とサボり癖
半年後、実家暮らししながらもお金が尽きてきたので「家から近い」と「営業のアシスタント」という楽そうなバイト求人に惹かれ現在の会社に応募する。
面接に訪問すると、現在の東京支店長(当時営業課長)に「若いから社員になりなよ」と言われたのに対して、特に深く考えることもなく入社を決める。
バイトも社員も変わらないだろうと勝手に決めつけ、バイト感覚で仕事を行う。
全国6支店で東京支店は10人くらいの小さな会社。
ニッチな技術サービスで建設会社に営業をかける会社だったが
約1年間とにかくさぼった。
引き継いだルート顧客だけなんとなくこなし、「行ってきます」と言って自宅に帰った。
1年間で得た新規顧客は4社だけ。
そんな営業マン、会社にはいらないよね。翌年3月、社長から呼び出されることになる。
超絶ブラックの技術職に異動
社長から喫茶店に呼び出されたときすごく嫌な予感はしていた。
「技術職をやってみないか?」
思った通りだ。
当時、働いていた技術職の人たちは毎日毎日帰りが22時過ぎ。
休みもろくに取れない。
段取りが悪い人たちばかりというのもあって、支店長や社長からは怒られてばかり。
絶対に技術職はやりたくないと思っていた。
「断ったらどうなりますか?今働いている人たちを見たら技術職はやりたくありません」
社長は静かにこう言った。
「はっきり言うとこれは決まったことなんだ。やりたい、やりたくないではないんだよ。悪いようにはしないから。」
そう、僕は今会社のお荷物だ。
確かに全然利益を出していない。
「僕は会社に必要ない」ってことだよね。
そう考えると無性に腹が立ってきた。
やってやろうじゃないか。
「わかりました。受けます」
静かに間違いなく悔しさに燃えていた。
「見返してやる」
負けず嫌いの僕が間違いなくそこにいたのだ。
これが僕の1回目の転機であることは間違いない。
ブラック技術職で1年半
ブラック技術職で働いてみるとよくわかった。
確かにとにかく忙しい。
マンパワー商品だから会社のキャパシティも限界がある。
そのギリギリまで仕事があるから、どれだけ1日にこなすかにかかってくる。
日中はすべて外仕事に費やし、夜19時以降に事務処理をこなす。
土日も費やさなければ仕事は捌けない。
仕事の段取りだけの問題ではなく、オーバーフローな職場だった。
営業の上司たちはスマートに19時には帰っていく。
腹が立った。
絶対にそっちに戻ってやる。
それと同時に誰よりもこの技術職で成果を上げてやる。
個の1日の完工予算が¥70.000だとしたら、僕は1日¥100,000やった。
どれだけ残業したって土日に出勤したっていい。
バンド活動も休止した。
そして、仕事の割り振りやスケジュールを組む仕事で、当時係長が行っていた「工程管理」の仕事を新人のくせに立候補した。
この仕事をやればもっとやりやすい仕事や完工が上がる仕事を自分に回すことができる。
ますます忙しくなったけどとにかく見返したかったんだ。
毎日の生活のすべてをブラック技術職にぶちこんだ。
この時点で給与は¥200,000(手取り170,000)ボーナス無、残業代無。
ブラックもブラックだ。
栄光の営業プレイヤー時代
再度営業職へ異動
技術職で頑張っていることが段々と社内で評価されてきたと同時に、自社サービスに対する知識や経験が自信になってきた。
完工高は維持しながらも20時には帰れるようにもなってもきた。
一生懸命働いていたら不思議と技術職の仕事も楽しくなっていた。
このまま技術職を続けてもよいかな、なんて思っている自分がいた。
そんなころ合いにまた社長から呼び出された。
また、前の喫茶店。
なんとなく予感はしていたことだった。
「君を営業職に戻そうと思う」
うれしいような、ほっとしたような、もっと技術職を続けたいような複雑な感情が自分に溢れた。
でも、あの時の悔しさを思い出した。原点はここにあるはずだ。
「承知しました。営業に戻らせてください。」
そこに営業に戻る決意をする僕がいた。
成功体験がさらに自分を変える
もう一度営業に戻ってからというもの、自分でもびっくりするぐらい快進撃であった。
あれだけブラック技術職で働いてきたのだという自負と、自社サービスの知識と経験を武器にガンガン営業活動を行った。
仕事が取れる喜び、リピートしてくれる喜び。
これが営業の醍醐味なんだとわかった。
紹介が紹介を呼び自分のお客さんがどんどん拡大していく。
早く仕事に行きたい。
もっと受注を獲得したい。
その一心だった。
とりわけ単価の良い仕事を取ることと、自分の提案で顧客を動かすことはとにかく面白かった。
紹介が紹介を呼び、あるエリアの仕事を倍以上の単価で独占した成功体験は今でも忘れない。
月予算500万円だった僕が2カ月連続で2,000万円の受注を獲得した。
その年ボーナスも初めて支給され主任に昇格した。
会社から評価されることもうれしかったのだ。
これらの成功体験は僕にとっての2回目の転機といえるだろう。
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社長が会社を辞めて独立する
当時の社長が急に辞めることになった。
独立して自分の会社を興すらしい。
しかも同業で独立するらしいから、はっきりライバル会社となる。
僕は何一つそんなこと知らなかった。
実際には良い人材には声をかけて引き抜きを工作していた。
急に5~6人くらいが退職することになって、引継ぎやらなんやらでめちゃくちゃだ。
そんな中、僕はまた悔しさに燃えていた。
僕には声すらかかっていない。
きっと誘われても行かなかったと思うけど、評価されていないってことだ。
この社長だけは見返してやりたい。
業界は一緒だ。
いつでも戦える。
そして、当時の社長は退職と同時に多くの顧客も奪っていった。
会社の立て直し
多くの顧客と同僚を奪って元社長は独立していった。
社長が抜けた後の体制は営業課長(現在支店長)と、他支店から異動してきたもう一人課長(現在退職)と、僕という体制となった。
横滑りしてきた課長が急に僕の上司として入ってくるのは気に食わなかった。
野球で言うFAで外様がクリーンナップに入ってくるようなもんだ。
その異動してきた課長が金額だけで営業する人だった。
どの顧客に対しても、とにかく最初から安い見積を出して目を引きお金で差別化する。
僕はそれがすごく嫌だった。
営業の面白みを感じないし、技術の質も低下していくだろう。
この課長よりも人脈や提案力で勝負して絶対数字を抜く。
強いライバル心を持った。
金だけで勝負すること嫌だという気持ちは営業課長(現在支店長)も同じだった。
いずれ異動してきた課長は更迭されることになるのだが、まずは数字の確保が必要だ。
新人を中途採用で1人増員する。
初めての教育係も兼任する。
新人教育をしながら、ひたすら受注活動する。
ここでもまたブラック営業レベルの忙しさとなるのだが、とにかくがむしゃらに働くことが楽しかったのだ。
ライバル視していた課長を抜く
ひたすら受注活動を行うことは楽しかった。
新規顧客の獲得もうれしかったが、自分が開拓した顧客がリピートしくれることにさらなる喜びを感じていた。
自分の働きを評価してくれて2度目の依頼をしてくれるからだ。
そのため自分の顧客にはとにかく愛着を持って接した。
人間関係が深まっていくことに喜びを感じていた。
毎日電話はなり続ける。
残業も休日出勤もした。
それでも、とにかく楽しかったのだ。
今の自分のルーツはここにある。
顧客からも会社からも自分を評価してもらえることがうれしい。
ここにモチベーションがあったから営業は楽しいし数字もあがったのだろう。
ただ、その分誰かからの引継ぎはやりたくなかった。
頑なに引継ぎは断った。
自分の顧客を作りたかった。
別の誰かの評価の上にのりたくなかったのかもしれない。
そして、勝手にライバル視していたもう一人の課長の数字を追い抜いた。
ほとんど前社長の引継ぎをしていた課長をだ。
そして会社は判断する。
金額だけで勝負する課長の更迭を。
僕を中心に営業組織を作っていくことを。
僕は係長に昇進した。
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年表で数字を紹介
ここで年表で整理してみましょう。
※受注数字は6,000万が営業マンの一般的な合格ラインです。
- 2003 入社 受注1,000万
- 2004 技術職異動
- 2005 途中で営業職異動
- 2006 成功体験 受注6,000万
- 2007 主任昇進 受注7,500万
- 2008 係長昇進 受注9,200万
- 2009 受注1億0,500万
- 2010 受注1億1,500万
- 2011 課長昇進
組織の改編
更迭された課長は総務に異動となり、いずれ退職することとなる。
そして、営業課の組織改編をしていくこととなった。
上司である営業課長は東京支店長に、僕は係長、部下2人を従えた。
実質的に新人営業の育成、個人の数字、課の数字の管理はすべて僕に課せられた。
その状況下でも数字は上げ続けた。
ずっと部下の面倒も見ているので教育スキルも上がっていく。
給料も上がっていく。
半期ごとの評価で毎回10,000円近く上がっていく。
基本給ベースでみても、年齢にしては良い水準まであがってきた。
給料が上がるということは会社から評価されること。
これもうれしい。
そして、3年連続全支店トップセールスを達成した後、支店長から課長の任命を受ける。
既に部下の教育や管理は行っていた。
課長の立場としての仕事を先にやっていたから課長になったのだ。
新人教育なんて手間だけかかって、自分の数字を上げる支障でしかない。
だけど、気持ちよく受け入れ僕は指導していた。
「まだその立場じゃないから俺はやらない」って言う奴がいるけどそれは間違っている。
「既にその仕事をしている人がその立場になるのだ」
最後に
完全ノンフィクション。
僕の営業プレイヤー時代でした。
振り返るとやはりいくつか転機がありますね。
技術職への異動⇨営業の成功体験⇨元社長の独立⇨異動した課長とのライバル心⇨組織の改編。
それぞれ挫折や成功体験など大事な変化があってこそ今の自分があります。
今は定時で帰る営業管理職として強い組織作りに燃えています。
引き続き経過を覗いてもらえると幸いです。
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